高松高等裁判所 昭和37年(う)333号 判決 1963年6月11日
被告人 和田久長
主文
原判決を破棄する。
被告人を罰金五千円に処する。
被告人において罰金を完納することができないときは金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審及び当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は要するに、原判決は、被告人は本件乗合自動車を運転するにつき乗降口の扉が解放された儘で出発したことを認めながら、その当時施行の自動車運送事業等運輸規則第三四条第三五条の規定を根拠としその当時施行の道路交通取締法施行令第一七条第六項の適用を認めず、右は車掌の合図によつて発車したものであるから、運転者たる被告人には乗客の転落防止の安全装置をせずして出発進行したことについて責任はないものと判断しているが、これは法令の適用を誤つたもので右誤りが判決に影響を及ぼすことは明白であると主張するものである。
よつて按ずるに、
凡そ自動車運転者が自動車を運転するにあたつては、その運転する自動車の種類如何を問わず、常にこれを安全な方法によつて運転する業務上の責任を有するもので、車掌又は助手を同車させて運転する場合においても運転者に固有の右安全運転の責任には何等の消長を来たすものではない。右施行令第一七条はひろく車の操縦者に対し安全な運転をするために遵守すべき事項を規定しており、右は当然車の操縦者としての自動車運転者に対しても適用があるもので、同人は同条第六号所定の「とびらを閉じ、又は乗つている者の転落を防ぐために必要な鎖ロープその他の安全装置を施して諸車を運転する」義務を負うものと言うべく、従つて乗合旅客自動車の運転においては、とびらを閉じ乗つている者の降車或は転落を防ぐ装置を自から或は助手、車掌等をしてなさしめた上、発車進行をする義務があることは明かである。
尤も、右運輸規則はその第一五条で乗合旅客自動車には車掌の乗務を命じ、同第三四条に運転者は車掌の合図によつて発車を行うこと、同第三五条には車掌は旅客の安全等を確認し且つ乗降口のとびらを閉じた後に発車の合図を行うべき旨規定しているが、これは乗合旅客自動車は一時に多数の乗客を輸送するのを通常とするところから、特にその人命に対する包険防止の見地より車掌の乗務を命じ、且つ車掌の遵守事項を定め、もつてより一層安全な運転を期したものであり、これ等規定の存することよりして乗合旅客自動車の運転者に対する前記施行令の義務は排除せられ、発車について同規定が車掌に遵守を命じている事項についての責任は挙げて車掌にあるものとし、運転者は車掌の合図に従つて発車進行さえすれば、右事項に関する限り、それが安全な状態においてなされたものかどうかを確認する義務はないものと解すべきでないことは同規則制定の趣旨及び文理に照し極めて明白であり、又このことはこれを形式的に考えても右規則は省令にして政令より下級の命令である規則によつて、上級の政令であるところの道路交通取締法施行令第一七条に定める前記自動車運転者の義務を排除する効力を認めることは許されないものである。
ただ、相当多数の乗客を乗せ時間を定めて運行している乗合旅客自動車の運転者に右施行令第一七条所定の遵守事項を適用するに当りては諸種の条件下において自から限界があり、安全運転の名のもとに運転者に難きを強いることは許されず又これは法の予期する処でなく、それは具体的事案において交通法規及び社会通念に従い合理的に判断しなければならぬ。
そこで本件事案についてみるに。
原判決が事実認定に供した証拠及び当裁判所の検証調書、証人伊藤恒雄に対する尋問調書の記載当公廷における被告人の供述を綜合すると、被告人は原判示停留所で客二、三名を乗せ、続いて車掌川田香恵子の発車の合図があつたのでその合図に応答して警音器を鳴らした上発車した、その時娘と孫を見送りのため車内に入り孫を座席に座らせ同車より降りようと後向きで稍々中腰となりとびらの開いていた乗降口階段を踏んでいた伊藤恒雄が発車に驚き、その姿勢の儘地面に降りたため地上に転倒し左足を該自動車の左後車輪に轢過されて判示傷害を受けたこと、車掌は乗降口とびらを閉めることなく右発車の合図をしたこと、そのとびらは運転手席より左斜後方約一米の処にあり、定員四八名の判示車に乗客は約一二、三名で全員座席に座り又伊藤も前示の通り中腰になつていたため被告人が運転席より首を稍々左斜後方に向ければ容易にとびらの開いているのを認め得る状況にあつたこと、これを見るため特に発車に支障を起す恐のある事由もなかつたこと、車掌は右規則第二七条により会社が定めた従業員の服務規律並びに乗務心得或は会社の直接教育により発車の合図はとびらを閉めた上なすべき旨厳命を受けておりながら必ずしもこれを守らずとびらは発車の合図と同時に或はその合図後閉めることが多く、被告人もこれを知つて居り、発車の合図があれば必ずとびらを閉めているものとは信じていなかつたこと、本件の場合においてもとびらが閉つているものとは信じていなかつたこと、夫々認め得る。斯る状況下において運転者たる被告人に右施行令第一七条に基づき発車時とびらが閉塞されているか否かを確認せしめた上発車せしめることは決して難きを強いるもので無い。従つてこの措置に出でず車掌の合図により発車し前示経緯のもとに伊藤恒雄に傷害を与えた被告人は、業務上の注意を怠つた者として刑法第二一一条の業務上過失傷害の責任を免れず、これと異る原判決は前示各法令の解釈或は適用を誤つたものでその誤りは判決に影響を及ぼすこと明白であり、論旨は理由がある。
よつて刑事訴訟法第三九七条により原判決を破棄し同法第四〇〇条但書に従い直ちに判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は高知県交通株式会社の乗合旅客自動車の運転者であるが、昭和三五年一〇月八日午前七時前頃定員四八名の同社乗合自動車(高二あ二〇〇五号)に車掌川田香恵子(当時一六年)を同乗させ、客一〇名位を乗せて高知県土佐郡土佐村境六四番地の馬場停留所に停車し更に客二、三名を乗せて同所を出発しようとしたが、斯る場合まま車内に見送者が立入つていることもあり又乗客が所用のため急に降車することもあるので、よく乗降者並びに車内に居る者の動静に留意し、且つ車掌の発車の合図があつてもこれにより直ちに発車することなく自席より乗降とびらの閉塞を確認し、運転の安全を確認した上発車し事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、不注意にも右措置をとらず運転席左斜後方約一米の乗降とびらが開け放されたままで、然も同停留所で娘と孫を見送りのため車内に入り孫を座席に座らせ同車より降りようと後向きで稍々中腰となり乗降口階段を踏んでいた伊藤恒雄(女子、当時六四年)に気付かず漫然前記車掌の合図により発車し、そのため発車に驚いた伊藤がその後向きの姿勢の儘地面に降りて地上に転倒したため、その左足を同車左後輪で轢過し、よつて同女に入院加療二ヶ月余を要する左腓骨々折等の傷害を与えたものである。
(証拠の標目)(略)
法律に照すと被告人の判示所為は刑法第二一一条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するので所定刑中罰金刑を選択しその金額内で被告人を罰金五千円に処し右罰金を完納することができない時は刑法第一八条により金五百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審及び当審の訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により全部被告人の負担として主文の通り判決する。
(裁判官 横江文幹 小川豪 伊藤俊光)